Japanese Blog (日本語のブログ)
アメリカ暮らしも長い私ですが、どう転んでも「日本人」。特に、食べ物に関しては、超日本人です。先日、様々な国の方達がそれぞれの食文化について語るテレビ番組があって、とても興味深かったです。私にとって食事をする、もしくは、料理をするという事は、出来るだけ肉・魚介類と野菜のバランスを考える事。特に私は大の野菜好き、野菜抜きの食事は考えられません。ですから、食料調達というのは、旬の新鮮な野菜を手に入れ、肉・魚も買うという感じ。でも、かなりのお国では、肉類が一番最初に来て、野菜という食料に特に思い入れがないようなのです。これで長年の疑問に答えが。主人は典型的なアメリカ人、それも中西部出身。私がいろいろな野菜料理、つまり煮物だったり、酢の物だったり、炒め物だったり、お漬物だったりをご飯のおかずに作ると、「何でサラダばっかり作るのか」と、聞く訳です。私の中ではそれぞれが違った形の野菜入りの副菜なのですが、そうか、すべて「サラダ」というカテゴリーになるんだと思った訳です。結婚生活も長くなれば、この典型的なアメリカ人男性も、「サラダ」狂の食事に少しは慣れて来たようですが、実際のところどうなんでしょうね?主人が運転している車の中で、しばしばハンバーガーの包装紙を見かけるのには、それなりの理由があるでしょうし。私が、梅干とご飯が急に食べたくなるようなものなんでしょうから、ね。
ついに、白鵬の連勝が止まった昨日。白鵬・稀勢の里戦だけでなく、すごい取り組みが続きましたね。把瑠都の播磨投げや、栃ノ心が勝った日馬富士戦など。播磨投げでは、把瑠都の体の柔軟さ、捨て身の強さ、正に圧巻でした。それから、栃ノ心の投げ。思わず、「カッコイイ!}と叫んでしまいました。稀勢の里は、最近白鵬を良いところまで追い詰めるものの、白星には結びつかず、熟考の上での一番だったのでしょう。一つ一つの動きが、とても有効的で、白鵬を心身ともに追い込む事が。稀勢の里は、大関、そして横綱昇進への期待を背負った力士ですから、この大一番での勝利をバネに、一気に上を目指して欲しいですね。白鵬は、「これが負けなんだ」、とつぶやいていましたが、63連勝中、一度も見せたことのないバタバタした取り組みでした。連勝という意味では、振り出しに戻ってしまいましたが、大横綱の白鵬。これからも、白鵬らしい横綱相撲を期待しています。
昨日は、夜の雨も上がって、朝からとても爽やかな秋晴れ。昼間のコンサートを、私の大学内の小ホールで開きました。この小ホールは、木目の内装で、高い天井。防音整備がないので、外の音が入って来る欠点はありますが、自由で人を包み込むような空間です。ここで、ショパン(1810-1849)とシューマン(1810-1856)を演奏、彼らの人生や私の曲に対する想いもお話ししました。 フレデリック・ショパンの作品は、バラードの第4番(1842年作)を。ショパンの多くある作品群は、ピアニストにとって、どれも生涯に一度は弾きたい曲ばかりですね。特に大曲の、ソナタの3番、幻想曲、スケルッツオの4番やバラードの4番など。これらの曲が一応弾けるようになれば、「ピアノをやっています」と一応言えるのでは・・。音楽性、テクニック、音色、全てに大変高度なものが要求されます。練習をすればするほど、様々な発想が浮かんで来て、本当に終わりのない音楽の旅です。でも、充実した音楽一人旅ですよ。 そして、ロバート・シューマンの作品は、ロサンゼルス交響楽団の友人達とピアノ5重奏曲(1842年作)を。これは、クララ・シューマンが多くのコンサートで演奏し、作曲された当時から現在まで、いろいろな機会に演奏されて来た室内楽の大曲です。とても素晴らしい音楽仲間達と、リハーサルからコンサートまで、至福の時を過ごしました。ロバートがクララと結婚した1840年は、「歌の年」とも言われるように、素晴らしい歌曲を多く作曲。翌年の1841年は、交響曲に専念、そして1842年は、シューマンにとって室内楽の年になりました。3曲の弦楽4重奏を夏に完成した後、この5重奏曲に取り掛かり、驚異的な事に20日間ほどで仕上げたと言われています。出版前に、友人宅で演奏しようとしたときに、ハプニングが。ピアノを担当するクララが急に病気になり、急遽ピアノを弾ける人を探さなければ行けない状況に。救世主は、シューマン夫妻の友人であるメンデルスゾーンでした。演奏はリハーサルなしで、スムースに。演奏後、メンデルスゾーンからシューマンに示唆した点が、いくつか改定され、出版の運びとなりました。大物作曲家2人が共作したとも言えるこのピアノ5重奏曲。このエピソードを考えただけでも、演奏するのがワクワクしますね。 私の次の課題は、ヨハン・セバスチアン・バッハのゴルドベルグ変奏曲です。長年思いを寄せて来た大曲。どこまで自分がゴルドベルグの域に達する事が出来るのか、雲を探るような気分です。自分の全てをかけて、勉強したいと思っています。
この秋、週末に大学で教える機会が増え、教えた後に自分のレッスン室に残って、練習したり勉強したりするように。この時間をとても気に入っています。構内に学生達も余りいないので、静かな空間で練習が出来るんです。学校という公共の場で、逆にとても一人になれる感、とでも言いましょうか。週末、家で練習しようとすると、意思が弱い私は、効率がガタ落ちになることも。それが、大学のレッスン室には、ピアノと机しかないので、集中して練習が出来るし、勉強も進む、と言う訳です。窓の外を見れば、中庭に噴水。ちょっとお茶でも、と言う場合は、秋色に染まりつつあるキャンパスを歩いて、大学内のコーヒーハウスに。作家の方達がホテルにカンヅメ、とか、仕事部屋に行って書くというのは、もしかしたらこういう事なのかしら、と思っています。贅沢なオプシオンに感謝しつつ、大学のレッスン室で練習する私です。 私達にとって楽器の練習というのは、必須の事で、時にはマンネリになったり、効率が悪く先が見えないブラックホールに入ってしまうことも。フレッシュな気持ちで、新しい方向性を見つけながら、練習出来るようにしたいですね。練習に飽きたり、堂々巡りになりイライラしたら、思い切って外に出て散歩、音楽と全く違う事をしてみたり。毎日新鮮な気持ちで楽器に向かえると、幸せですものね。
ロサンゼルスの中心から、車で30分弱の我が家。自然が豊かで、野生動物がちょくちょくやって来る。しかし、梟は初めて。何だか庭から「ホーホー」と聞こえるので、覗くと2匹の梟が。庭の木に止まって、何やらおしゃべりの最中でした。梟は縄張りが大きく、広大な範囲を飛び回るようで、どこから来たのでしょうね。森の長老という風情で(若かったらごめん!)、威厳があるような感じ。しばしお喋りの後、山の方に2羽で飛び去っていきました。とても楽しい経験でした。
先日何気なくNHKの放送を見ていた時の事。経験豊富な俳優さんが、自分の駆け出しの頃のお話をしていらっしゃいました。その中で、アメリカ社会、もしくは西洋社会では、あり得ない発言があり、ビックリを通り越し、ショックを覚えました。私の住むアメリカ社会は、それは多くの違った人達が生きています。ですから、人種、宗教、結婚の有無、ヘテロセクシャルであるか、ホモセクシャルであるか、など、差別に繋がる発言に非常に神経を払います。それが、この俳優さん、平気でホモセクシャルの方達の事を、笑いものにするような発言を。そして、それをカットもせずに放送したNHK。日本では、こういう発言が平気で行われているのでしょうか。放送媒体ですら、それを許容しているのでしょうか。これがアメリカ社会なら、この発言だけで、この俳優さんも、NHKも、大問題になる筈。日本が、差別問題に寛容なのか、それとも鈍感なのか。日本人として恥ずかしく、大変驚きました。
車も電気製品も、定期的なメインテナンスが必要。お肌のお手入れ、爪のお手入れにだって、お金と時間をかける人達がいます。そのように、常に整備をして、一定のレベルに保つ事。これは、ピアノのテクニックにも言えます。一度身につけたテクニックでも、そのレベルを保つためには、日々の練習が必要になります。私は高校生の時に素晴らしいピアノの教授に出会って、それまでやって来たテクニックの見直しをしなければ、次のステップにはいけない事を言い渡されました。実は自分でも壁を感じていたので、この教授の元で、基本から丁寧にやって行く事に。その一つに、ピッシュナ(Pischna)というテクニック本を練習する過程がありました。この本は、指の独立に重きを置いた練習本で、1番から60番まで一冊こなすと、指が解れ、指先まで神経が行き届くようになります。正直に言えば、かなり退屈ですが、私はそれぞれの練習曲に、自分なりの目的を書き込んで、そこに集中するようにしていました。高校の頃は、毎日1時間程かけて、ピッシュナを全曲練習していました。この本は、今でも私のピアノバイブルです。手の調子が悪い時や、何だか指がスムースに動かない時、少しピアノから離れていた時など、ゆっくりピッシュナを練習。数日続けていると、自分の手の感覚が、徐々に戻って来ます。指や手のどの部分に神経を集中させるのか、どの部分を鍛えているのか、を考え練習すると、とても効果があります。毎日の練習の指慣らしに、最初の10番程使うのも、お薦めです。
様々な本が出版され、「どうやって限られた24時間を効率的に使うか」、という事が論じられています。私の場合、1)バリバリやる時と、グタッとする時のメリハリをつける、2)出来る事は、2つ3つ同時にやる、の2点でしょうか。例えば、ピアノの練習中に煮物などの調理は出来るので、そのように準備して始める、見たいテレビがある時は、その時間に、洗濯物をたたむ・爪を切る・ぺデイキュアをする・ボタン付けをする・アイロンがけをするなど。エクササイズも、歯磨きも、テレビの時間にする習慣が出来ています。又、お茶を飲むためにお湯を沸かす時間に、台所の片付けをチョコチョコとする、買い物に行く時は、しっかりどの順番で店を廻るかを、一筆書きのように準備して出掛けるなど。そうすると、結構時間を効率的に使い、時間を生み出す事が出来るような気がします。その反面、ゆったりする時間を確保するのも、とても大事だと感じます。例えば、夕食の時間は、美味しいものをちょっとお酒など飲みながら、その日あった事を話しながら、ゆっくり過ごすなど。でも、夕食の後片付けをしたら、又ピアノの練習に戻る事も大事でしょうか。気の合った友人達と、美味しい食事をしながら集まるのもとても楽しいですね。映画も大好き。ミルクテイーを片手に、本を読む時間も良いし、庭に来る鳥達やリスの動向観察も面白い。2ヶ月に一度の相撲観戦も、無くてはならないもの。人生一回、やらなければならない事と、やりたい事を、どちらも前向きにこなしていきたいですね。
メキシコで、私の今回の公演旅行も終わり。メキシコシテイ(メキシコの首都)とプエブラ市で2回の公演を行いました。私の住んでいるカリフォルニア州は、南の端でメキシコのテイフアナ市と国境が接しているので、通常「メキシコ」というとお隣に行く、と言う感じです。しかし、メキシコシテイはずっと南に位置しており、カリフォルニアとの国境から約2800キロの距離。現在全ての公演が終わり、メキシコシテイの空港で帰りの飛行機を待っているところです。 メキシコシテイは、標高2240メートルの高地にあるので、ちょっと頑張って歩くと息切れし、沸騰温度が違い、朝晩の温度の差が激しく、と、来る前には知らなかった事がいろいろありました。コンサートは2回、メキシコシテイとプエブラ市で。2公演とも国際交流基金メキシコ事務所の主催で、それぞれ大学内の講堂で行われました。メキシコシテイから車で約2時間のプエブラ市では、お客様から熱狂的なお言葉を頂き、公演旅行の最後に、とても良い思い出になりました。以前にも書きましたが、いろいろな国の人々と音楽を介して交流を持てるのは、音楽家冥利に尽きます。 今回の公演旅行に選んだテーマ「アジアと西洋を音楽で繋ぐ」というのは、今後も自分の人生の中で、続けていきたいテーマです。コンサートの中でのお話しも、何とかスペイン語でクリア。そのお国の言葉でお客様に語りかければ、多少発音が悪くても、距離がうんと近付くと思います。又今回は、それぞれのお国自慢の歌をピアノにアレンジし、アンコールで演奏。これも好評を頂く事が出来ました。 メキシコシテイでは空いた時間で、多少観光も。長年の憧れである、メキシコの著名女流画家フリーダ・カーロの家を訪れる事が出来たのは、感激でした。本や映画などで、慣れ親しんで来た彼女の作品を、彼女の住んでいた家で見る事が出来、更に感動。そして、彼女がご主人のデイエゴ・リベラと一緒に住んだこの家は、そのものが芸術作品です。ラカサアズール(水色の家)と呼ばれ、この中を見学出来たのは、私にとって、とても貴重な時間になりました。彼女は生涯病気と闘い、長い年月をベッドの中で。その苦しみとあがきが彼女の芸術の中で多く見られますが、彼女の使っていたベッドを見ることが出来て、私はしばし時間が過ぎるのも忘れました。それは、美しい庭が一望に見渡せる場所にあって、扉を開けると、寝ながらも外の空気に触れるように出来ていました。 帰国前日に半日時間が空いたので、メキシコシテイ内のチャパルテペック城と近代美術館も訪れました。ホテルのフロントで頂いた簡略地図をみると、ホテルから歩いて行ける距離。しかし、これが結構な距離で、まさに「標高の高さ」が私に直撃。少しフラフラに。オマケに、帰りは近道を行こうと思い完全に道に迷い、警察の人に道を尋ねたところ、この付近の一人歩きは危険だからと、警察の車でホテルまで送ってもらうという、おまけまでついて来ました。近代美術館は美しい建物で、館内を廻りながら静かな時間を過ごし、その後お城へ。これは、同じ公園内にありましたが、ちょっと高台に立っていて、そこまで登るのが、又一苦労。まさに標高の壁が。しかし、これは行く価値大有りでした。スペイン統治時代のもので、歴史を感じるだけでなく、とても美しい建物で、居るだけで素敵感に包まれました。あちこちに散りばめられた芸術品や当時の生活をしのばせる部屋を見て、楽しい時間を過ごせました。この後、ホテルへの帰途で「迷った」という訳です。何事も無くて良かったのですが、ここで犯罪にでも巻き込まれていたら、沢山の方にご迷惑をかけるところでした。過信は禁物。特に海外では、慎重な行動が望まれますね。反省しきりです。 病気にもならず、天候にも恵まれ、飛行機の遅延もなく、とても有意義な公演旅行が出来ました。お力を頂いた多くの方に、感謝の気持ちで一杯です。本当にありがとうございました。
先日ご報告したキューバでの公演の次は、エルサルバドルでの演奏会へ。効率の良い乗り継ぎの飛行機が無く、コスタリカのサンホセ飛行場経由で、行きました。エルサルバドルも、始めての訪問国です。キューバは暑くて、正にカリブ海の美しい島、という感じだったのですが、こちらでは、シトシト雨が私を迎えてくれました。空港から30分くらい離れた首都のサンサルバドル市は、少し高地にあり、ちょっと肌寒くもありました。 エルサルバドルは、中南米の他の国々同様、長くスペインの統治下にあり、1823年に独立。その後の60年間は、国内の権力争いに明け暮れ、又、隣国のグアテマラとホンジュラスとの領土紛争もありで、混乱を極めていたようです。その後、ヨーロッパにおける珈琲の需要が伸び、輸出産業が展開。それに伴って、資本家階級が誕生し(「珈琲14家族」と呼ばれ、現在もこの末裔が国の重要な部分をになっているらしいです)、彼らが政治・経済両面で国を支配するようになりました。その後、悲惨な生活を強いられた農民・労働者の不満が溜まり、共産党の誕生、クーデター後の軍事政権など、第二次世界大戦をはさんでも、不安定な政情が続いていたようです。いろいろな支配政党が次々にあらわれ、1984年の選挙で中道左翼政権が始まりましたが、国民の期待に応えられず内戦が悪化し、5年で敗退。1989年に行われた選挙では保守系が圧勝し、その後国連事務局長の支援や、アメリカの後押しもあり、ついに1991年にメキシコにおいて和平合意文書に調印。長い間の内戦に別れを告げました。そして、内戦による国の疲弊に手を打つべき、新政党(ARENA)が国の再開発に乗り出しました。そして、2009年に15年ぶりに選挙が行われ、再び左派政権が勝利。現在は、50歳のフネス大統領下、国政の見直しを図っています。特に、文化面での教育が疎かになっていたので、その面において、何とか早く青少年にきちんとした文化教育をしたいと、模索しているようです。 こういった背景もあり、私のコンサートは、エルサルバドルの文化庁の期待が高かったようです。もちろん日本とエルサルバドルの友好、そして日本の音楽紹介が今事業の大きな目的ですが、国民に音楽の素晴らしさを通して感動を与え、情操教育に目覚めてもらう、と言う背景でしょうか。コンサート前日、在エルサルバドル日本大使館での晩餐会で、エルサルバドルの文化庁の方達とお会いし、いろいろなお話を聞かせて頂きました。将来に向けての音楽教育、芸術振興など、計画は多々あるようですが、まだまだ実行には至っていないと言うのが、実情のようです。コンサートは2回、首都のサンサルバドル市の国立劇場と、第2の都市サンタアナ市のこれも国立劇場で。どちらも、沢山のお客様に入って頂き、公演終了後も多くの方々から素晴らしいお言葉を頂き、まさに演奏家冥利につきるエルサルバドルでの経験になりました。アンコールでは、日本の「さくらさくら」をピアノにアレンジしたものに続き、エルサルバドルのお国自慢の歌を2曲弾き、会場と一緒に盛り上がりました。 次は中米の大国、メキシコへ移動です。こちらは、国の規模が全然違うので、どんな経験になるのか、今から楽しみです。メキシコでも、2公演が予定されています。それでは、又、近況お知らせします。