Book Reviews (マイブック評)
新しい作家との出会い。毎日の中のほんのちょっとした瞬間の出来事から、物凄い物語を紡ぎ出す。特に、お惣菜の中の、カブと大根が間違っていた!という、些細というのも言い難いような事例が、ふかーーーいお話になっているんですよ。とんでもない、作家ですね。ムーミン・ママのストーリーも、これ又、デイープ。こう言ってくればわかるでしょうが、この本、短編集です。まず、素晴らしい想像力、そして、文章力。「テールライト」は、SF風という具合に、引き出しが多い。森さんの本、これからも読みます!
不思議な引き合わせかも・・原田マハさんの「たゆたえども沈まず」でのゴッホとの時間の後に、この本。ゴッホも宮沢賢治も、生前は全く売れなかった。だけどゴッホには最愛の弟テオが、宮沢賢治にはその生涯を大きな愛で見守り続けた父がいた。両者とも短命である。しかし、その短い生涯で全て語り尽くした感がある。賢治の父政次郎は、「父親像」に乗っ取って、厳格であろうする。だけど、その愛は無償で、もう手のつけようが無いくらい、真実だ。幾つになっても、どうしようもなく、可愛いのだ。そして心配でしょうが無い。これは、「たゆたえども沈まず」同様、フィクションである。しかし、その題材がとてつもなく魅力的で大きいので、それを自由に作家の中で膨らませることが出来る”小説”は、何と素晴らしい事か。日本人なら多分誰でも知っている宮沢賢治。しかし、父親を通して賢治を見、その家族に触れると、とても新鮮に、生き生きとしてくる。宮沢家の喧騒が、紙面を通じて伝わってくるようだ。涙なしには読めない、感動の一冊である。
兎に角、「感動」の一言です。最後の何ページかは、もう大泣き。ゴッホの絵は、いろいろな美術館で見て来たけれど、こんなに近くに、「人」として、ゴッホを感じたことはありません。これは、史実を踏まえた上での、フィクション。最後に美術史家の先生が解説をお書きになっているが、余りに深く研究しているので、史実と違うフィクションを楽しめないという感想。私も、前回の平野啓一郎の「葬送」で、私の考えているショパンと余りに違うので、平常心で読めなかった。そういう意味で言えば、私は大まかなゴッホの伝記は知っているものの、思い入れは全くないので、大いに本の中に入っていけた。原田さんの念密な下調べと、想像力で、ゴッホと日本人の画商(実在の人物)林忠正が出会い、ゴッホの弟・テオと画商の弟子が友情を温め、そこに世紀末のパリの喧騒と華やかさが加わり、素晴らしい物語が誕生。携帯電話で、本文中に出てくる絵を見ながら読むと、更に心に響くし、臨場感が湧く。家に居ることも多いこの頃、長編のこの本で、一人ゴッホの絵と戯れて見るのも一計では?
4冊ある事からも分かるように、これは大大長編だ。平野啓一郎に傾倒している私としては、是が非にも読みたい本であった。特に、ピアニストである私にも、大いに関係しているショパンと彼の恋人サンドが、中核を成すとあれば、尚更だ。という訳で、日本から本を取り寄せ、読み始めた。私もショパンについては、様々な本を読み、彼のピアノ曲のかなりの部分を演奏してきた。友人にショパンを専門にする有名な学者もおり、話し合ったこともある。ショパン像の余りの違いに、又、当時のパリのサロン界の見解の違いに、しばし本を中断。日本のお昼のメロドラマみたいに、ショパンの周囲の芸術家やパリのサロンの住人達が描かれているので、まずどのようなスタンスで本に近づいて行ったら良いのか、戸惑う事しきりだった。どうにか、これはショパンやドラクロア の名前を使った、日本の小説なんだ、と思い、読み進めた。分かり易く状況を説明するというのも、小説の大事な部分かとは思うが、それに度が過ぎると、こちらの空想の余地が全然なくなり、ちょっと呼吸困難状態になる。私は仲の良いフランス人の友人もいて、家族同様に付き合い、フランスに行けば彼女の家に泊まる。リオンで行われる音楽祭にも参加している。この小説には、「フランス」があんまり存在していない感じがするが、皆さんはどう思われますか。
猫は真実を語る!きりこは、ラムセス2世(猫)の飼い主で、真の友達。きりこは、生まれてからずっと、プリンセスとして両親から「可愛い!可愛い!」と言われ続けていた。だから、自分はとんでもなく、可愛いと思っていた。だから、フリフリのワンピースも着た。自信も持っていた。だけど、5年生の時に、満を持して恋する男の子に、ラブレターを渡したときに、「ぶす」と言われ(このぶすは、本文中常に、太字で表記されている)、一気に落ち込み、引きこもる。そこから、ラムセス2世の賢さで、きりこは徐々に復活。この復活劇が、素晴らしいのである。きりこは、人生の真実を悟って行き、自分の生き方を見つけ、ぶすという言葉の呪縛から解かれ、自由になる。半端でない文章力に支えられ、猫と少女の物語は、高みに押し上げられ、人生の指標となった。
不思議な体験をする短編集。現実に居たと思ったら、それこそ「迷宮」に嵌っている事に気付く。耽美的。スローテンポ。3次元ではなく、4次元的。万華鏡を見ていて、ふとそこから目を反らすと、外の光が眩しかったりする感じ。「Family Affair」の中に、こんな素敵な文章がある。火葬場で、家族が焼かれ、骨揚げの部屋での一コマ ー残された骨は、哀れなほどに僅かだった。誰かが砂浜に人のかたちに並べた貝殻のようで、しかもその数はまったく足りていなかった。ー とても静かな情景の中に、この一文だけで、全てを表現してしまう凄さがある。そして、この短編は、高倉健の映画のように終わるのである。先を急ぐ旅を所望するなら、この本は期待外れである。独りでいる時間が長い現在、作者もおっしゃっているように、ゆっくりとページを捲っていくのも、一興である。
はっきり言って、こんなに難解な本は、そうは、ないと思う。しかし、主人公がフランスのリオンを出て、イタリアのフィレンチェに向かう途中に立ち寄った村に入るところまで、辿り着ければ、後は、親近感が湧いてくると思う。実を言えば、この村に入るまでに、私も何度諦めようと思ったか・・旧漢字で分からない言葉だらけ。文体も品位があるとは言え、近づき易くはない。それに加え、身近にない、中世のヨーロッパの宗教の背景が分からなければ、読み進めない。異教、そしてペストの蔓延、魔女狩り。しかし、それは、あくまでも、経緯である。パリで神学を学ぶ主人公の真の目的は、異教徒の哲学書、マルシリオ・フィチイノの「ヘルメス選集」を手に入れる事である。そして、それを手に入れる旅の途中に立ち寄る村での、錬金術師と会う事である。 主人公ニコラは、兎に角、識りたいのである。とても小さい村には、司祭がいて、様々な村人達がいて、そして錬金術師がいる。私は、錬金術師と退廃した司祭の対比に、この本の真意を見たと思う。錬金術師のピエエルは、とても魅力的だ。ストイックだが、イマジナテイブで、「人間」である。それでいて、村人達の描写は、俗姓に溢れ、卑猥である。そこに、両性具有者、更に巨人が出現。これは、正にCGの世界である。ヨーロッパでは、今でも、旅周りの小さなサーカスが、見られるが、そんな世界に近いのではと思う。主人公ニコラの「本」への、愛情が私を完読に駆り立てたのかも、知れない。錬金術師のピエエルは、素晴らしい本を、沢山所持し、その本にも、ニコラは魅了されるのである。そして、旅の目的であった、「ヘルメス選集」もその中から見つける。私も、図書館に行くと、宝の山といつも思ってしまうが・・・作者、平野さんは、法学部出身で、作家の道に入られた。私の敬愛する作曲家シューマンは、大学で法学部に属するも、音楽の道を諦めず、転向した。そんなところも、平野さんのご本に傾倒する理由かも知れない。本を読み終わってから気付いたのが「神は人を楽園より追放し、再度近附けぬように、その地を火で囲んだのだ。」という、巻頭の言葉である。
作者ご自身も、「いろいろな意味で、過去の自分にしか書くことができなかった短編たちです。・・」と仰るように、若さと切なさと自信のなさ、それに若さ故の勝手さが入り混じった、ほろ苦いストーリー、3編。チマチマして、それでいて、ホワーンとした雰囲気は、多分日本独特だと思う。美点であり、難点でもある。他人との上手い距離の取り方とか、同調する「輪」に溶け込むとか、まあ色々。でも、日本はとても良い国、そして、西さんの小説も大好きです。
戸籍交換して過去を消すという男(達)の話。誰か全くの他人に、今日から自分がなれるとしたら・・そして、その他人の過去をも自分のものにする事が出来たら・・自分が忘れたい過去の汚点も、忘れたい家族との確執も、全てが帳消しになる。そして、新しい出会いがあり、結婚もあるだろうし、子供も生まれる。新しい名前、身分、経歴。戸籍交換前の自分と、戸籍交換後の自分が、ある意味二人存在する訳だけど、交換を望んだ自分に取っては、新しい自分だけが意味があることになる。これは、ひょっとすると、ネット上で、架空の名前で活動したり、炎上させたりする事と、意外と近距離にあるコンセプトでは・・魅力的だけど、強力な毒も含んでいる。
私は、はっきり言って、とても感動しました。ああ、私の人生こういう事だったんだなあ、と。一言、一句が、深く深く胸に染み渡りました。とても、良い本です。一旦死んでしまった人達が生き返り、死んだ意味、生きていた意味を探り、家族との関係、自分のこと、もう沢山のことを網羅しています。一言では、言い切れません。取り敢えず、素晴らしい文章がいくつかあったので、ここに掲載させて頂きたいと思います。 ポーランド人ラデック(火事に飛び込み、老人を助けようとした復生者ー生き返った人ー)の言葉 「誰も、人間の苦悩する権利を否定することは出来ません。それは、残酷なことです。我々はいつでも、癒しを与える事を急ぎすぎ、自分の住んでいる世界を憎悪から守るのに必死で、他者の苦悩を尊重するのを忘れがちです。」「苦悩を否定された人間は、悲劇的な方法で、それを証明するように追い詰められます。多くのの場合、我々は、決して否定できない深刻な事態が生じてから、初めて彼の苦悩を知るのです。」 そして、ラデックは、在原業平の歌「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という、業平の使える惟喬親王への心配りを挙げています。ポーランド人が、日本の伊勢物語が大好きで、それを引用するところも、とても良い・・・その静けさ、奥ゆかしさが、とても共感できますね。この辺りで、本書は、ゆっくりと、最初のクレッシェンド(音が段々と大きくなること)を迎えます。そして、彼はこうも言っています。「死は傲慢に、人生を染めます。私たちは、自分の人生を彩るための様々なインク壺を持っています。丹念にいろんな色を重ねていきます。たまたま、最後に倒してしまったインク壺の色が、全部を一色に染めてしまう。そんなことは、間違っています・・・」 そして、平野さんの「分人」というコンセプトに行き着きます。これは、「個人」という言葉に対しての、新しい考え、そして生き方です。つまり、其々対応する人間関係によって、異なる自分がいて、そのどれもが真実であり、同等であるというもの。「個性というのは、だから、唯一不変の核のようなものじゃないんです」これは、精神科医であり、NPO法人の池端氏の言葉。更にラデックは、昔の人が出家という形を取る事によって、社会的な分人を消す事によって、その分人が活性化されずに、終いには自殺という行為を防いでいたのだと言います。 私は子供の頃、辛い事があると、「自分は死後の世界にいる」と思う癖がありました。今思えば、こう考える事によって、その辛い状況を悪化させずに、次の行為に走らなずに済んでいたという事でしょう。つまり、心の免疫効果。主人公の友人秋吉は、分人の話を聞いている時に「親父っていうより、親父の前におる自分が気に入らんかったといえば、そら、確かにそういう面もあったかな。」と、死んだ自分の父親と面と向かう時に、胸クソ悪かった思い出を、分析しています。まさに、真実!! 私は思います。この分人という考え方。何も、頻繁に会う人達の事だけじゃないはず。心の友でも良い。心に住む大事な人が、自分を形作るのは、素晴らしい。そう思いませんか。本書は、自分自身を分析、理解する大事なキーワードが、ここかしこに散りばめられた大長編。一気に読む本じゃあ、ありません。時間をかけて、時には伊勢物語を紐解いたり、ゴッホの絵を見たりしながら、その世界に浸る本です。是非、時間を作って読んで見てください。人生の指標となるはず。