公平という事 2/9/11
February 10, 2011
公平とは何か、と考え始めると、これは大変な問題に突き当たる。例えば、私は日本に生まれ、いわゆる普通のサラリーマン家庭に育った。日本が高度成長期だったので、いつも未来があったように思う。社宅暮らしは、子供の私にはとても楽しかった。贅沢はあまり出来なかったが、ピアノの月謝は払え、夏休みなどにも小さな家族旅行が出来た。冠婚葬祭以外で始めて外食をしたのは、かなり大きくなってからだと思うが、社会がそういうものであったので、不満もなかった。そして今でも思い出すが、小学校の低学年では、アイスキャンデイは特別なおやつだったと思う。でもその特別なおやつが、とても嬉しかった。日本のサラリーマン家庭に生まれたという事は、それだけで世界の状況から考えると、かなりラッキーなことになる。
カリフォルニアは、メキシコと隣り合わせという事もあって、メキシコ人の違法入居者が沢山の住んでいる。何故こういう事が起きるかと言えば、メキシコにいれば生活が出来ないからだ。そして、少しでも良い生活を家族にさせたいという思いで、命をかけて国境を超える。そうして生活を確立したアメリカにいるメキシコ人家庭には、もちろん子供達がいて、彼らの事がいつも問題になる。カリフォルニアの法律では、学校に入学する時に、国籍が何であるか、違法住居者なのかと、問わない事になっている。だから、頑張れば大学まで出られる。その上の大学院だって可能なのだ。しかし、こういう学生達が卒業後、仕事に就こうと思うと、いきなり大きなハンデイーがかかって来る。身分を証明するものがないから、仕事に就けないのだ。運転免許だって取れない。そこで、Dream Actという動きがあって、こういう人達に市民権をあげようというものだ。もちろんこれは素晴らしい動きで、頑張って来たメキシコ人の若者に大きな希望を与える。しかしここで立ち止まってみると、同じ違法入居者の中でも、恵まれない家庭の子供は高校にもいけなくて、このDream Actに入らないという事になる。親の仕事を幼い時から手伝っている子供達も大勢いる。ここで、2段階目の不公平が生じる。こうして、考えていくと、何が公平かという事に答えを出すのは、不可能な事実に気づく。人はよく、「公平な社会」という事を大声で唱えるが、これははっきり言って不可能だという事を踏まえておいた方が良い。こういう不公平の中で、何かを信じ、何かを軸に出来るものがあれば、幸せだろう。誰一人として、同じ人間はいない。自分を信じて、「世間」という訳の分からないものに飲み込まれずに、自分を大事に生きて行きたい。